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捜索操作創作 1
感覚的なものとして胸の中にあるだけで
ここで話す事に明確な裏付けや学術的な意味は無いのだけれど

日本には作家といえる人は腐るほどいるけれど表現者はあまりいないなあ、と(うん、偉そうな私)
『文学』という言葉は自分の中の何を担保してくれると皆は思っているのか(または、きたのか)
そもそも何かを担保する力が文学にないからこそ、今、『文学』は衰退していくしか無い状況にあるのではないのか
表現者(創作する主体)が自分のしていること(つまり、自分は小説を書いている、とか。自分は詩人だ、とか。画家だ、とか。いろいろ)を客観視している事自体が不健全で
そんな事は自分のしていることを客観視してくれる他者に任せれば良いことだ。だって、批評家(評論家?)って人たちがいるじゃない、この世には。
表現することが職業?になった(なってしまった)近現代において自分で自分の立場を明確にすること(つまり職業を得ること?作家とか画家とか呼ばれること?)はきっと一番大事な作業だったのだろうけど。
表現っていうのは本来イヤになるほど自分しか存在し無い作業だ。でも、働くって事は自分の意識から一番遠い作業(滅私する作業)なんじゃないかな、と。だって、誰かに必要とされて(少なくとも必要とされようという努力をして)いないと仕事として成立しない部分があるもの。でも、それをしてしまうと表現としては中途半端になるんじゃないかな?だって、誰かの意見に左右されながら創作するしかないし、そこに自分の求める表現があるかどうかは謎だもの。そもそも表現していく事が仕事になってしまうと、当然、商品としての価値が創作物の大部分を占めるようになるんだろうな
でも、お金は大事だよね。生活だもの。
今世紀初頭であれば、パトロンとか探して気楽に表現できたものかしら?うーん、ジャン・コクトーあたりをみていてもそうと言い切れないような気がするな。

ジャン・コクトーと私が出会ったのは十数年前、私が小学五年くらいだった頃。『恐るべき子どもたち』を文庫で買ったのが出会いだった。その後、十五の誕生日に古本屋で全集を買って貰い、彼の評価は私の中で驚くほど高いものとなった。まあ、ツッコミどころも満載なのだが、今はそれは良いとして……
彼の作品や評論などを読み見て感じることは、あの時代のフランスあたりから商品としての表現と表現者としての表現のジレンマが明確化してきたんじゃないか、ということだ。
創作しようと思うとジャン・コクトーの評価は高くなるけど、文学が純粋に好きな人には不評だろうな……。
そもそも日本におけるジャン・コクトーの評価の高さは堀口大学がとんでもない文才の持ち主だった以外に無いのは明らかだろう、と。(原文を原文として読むだけの語学力が自分にあればなあ、と少し落ち込んだりして)逆に言えば、日本における一般のジャン・コクトーに対する評価は堀口大学が関係し訳した部分ばかりで、他は誰も気にとめていないのではないだろうか(いまさらジャン・コクトーが感覚として古いって意見もあるやもしれず)
まあ、ジャン・コクトーのそういった日本での評価と同様に堀口大学自身も訳詞訳文ばかりが注目されている点が非常に不幸な気がする

ジャン・コクトーと堀口大学に関連して、もう少し考えをまとめてみるのも面白いかなあ

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